穴の空いたジンクス

hiroyukimiura2013-02-28

 「今日はやけに鳥が騒がしいなあ。」
 独り言なのか、それとも私に向かって話しているのか分からなような口調で彼が唐突に言った。私は曖昧に「そうかな。」とマカロニを口に運びながら相づちを打った。今日のお昼ご飯はツナと茹でキャベツをマカロニと和えただけの簡単なものだ。簡単とは言え、結構美味しい。と、私は思う。
「こりゃあ、地震がおこるんだ。」
彼はそう言ってマカロニを一口、口に運ぶ。
「大地震の前にはカラスが騒ぎ立てるもんだ。」
確かに開かれた窓の向こう側から、数羽のカラスが間の抜けたような声で「かーかー」鳴いている。でもそれはただ単に「カラスが数羽鳴いている」というだけの事であって、私には騒がしいという程には思えなかった。
 
 彼には突然変な事を言う癖みたいなものがある。夕方の空をぼんやり見上げていて「明日は落とし物に注意しなくちゃ駄目だな。」と言ったり(ちなみに私が「なんで?」と聞くと「一番星を見つけてしまったから。」と言った)スーパーで買い物をしていて突然「明日の朝は早起きしてマラソンするぞ。」と言ったりする(ちなみに私が「どうしたの?突然。」と聞くと「ほら、この大根、根っこの一番下が二股になってる。」と言った。)。そんな感じで彼は、彼にしか理解出来ないジンクスのようなものを持っている。もちろんそのジンクスが、結果確実なものとなるかどうかは分からない。大根の時は早起きして雨の中マラソンをしたけど、一番星の時には落とし物をする事もなく、拾う事もなかった。彼のそんな言動や奇行も、特に誰に迷惑をかける訳でもないから、私は別に気にしていない。おそらく、彼には彼なりのルールがあって、そこから外れる事なくそれを遂行しているだけなのだ。もちろん、私にそれをとやかく言う権利もない。
 
 彼はマカロニを三口食べて、スープを一口啜る。その順番を正確に繰り返す。マカロニを三口食べる。スープを一口啜る。スープを啜る時にずずと音を立てる。マカロニを三口。スープを一口。ずず。マカロニを三口。スープを一口。ずず。その正確な繰り返しの中で、私の作ったお昼ご飯は彼の胃袋の中へと順序よく消えて行く。時折変則的に彼は「うまい。」とつぶやく。「そうか、うまいか。」と私は心の中でつぶやく。
 
 彼は何かを考えながら食べ続けている。彼は食べている時に物事を考える事が多い。大地震の予言をした後から、彼は一言も(正確には「うまい」としか)喋らない。そう、彼は、今、何かを、考えているのだ。マカロニを食べながら。
「何考えてんの?」
私が聞くと、彼は三口目のマカロニを匙で掬って、それを口に運び、ゆっくり咀嚼して、飲み込んだ後、やっと答えた。
「もし二人が別々の場所にいる時に大地震が起きたら、待ち合わせ場所をどこにしようかと思って。」
 彼はそう言ってスープボウルに手を延ばし、淵に口を付けてずずと啜った。「どこか、いい場所、決めておいてよ。」と、彼に向かって私は言った。彼は返事をする代わりにスープをゴクリと飲み込んで「うまい。」と小さくつぶやいた。
 
 私は時計を見る。時刻は13:20分を回ったところだ。きっと、明日は雨になる。洗濯を始めるには少し時間が遅過ぎるけど、今日のうちにやっておかなければならない。お昼ご飯を食べ終わったら、洗い物は後まわしにして、先ず洗濯機を回そう。日が暮れるまでに乾くかどうかは分からないけれど、私はそう決めた。彼はそんな私の決心も知らずに、三口、一口、ずず。の繰り返しを終えた。
「ごちそうさまでした。」
満たされたお腹をさすりながら彼が言った。
「やっぱり◯◯小学校の校庭がいいのかなあ。タイヤの半分埋まった遊具の辺り。」
応えるように、窓の外のカラスが「かー」と鳴いた。
 
 彼の語るジンクスはあまり確実性があるとは言えないけれど、彼は完璧なジンクスをひとつだけ持っている事に、まだ気がついていない。それは多分、私しか知らないジンクス。
 彼がジンクスを語った翌日は、必ず雨だ。
 
 
 
 
 
 

カレンダー

hiroyukimiura2012-04-12

 青い空のところどころに白い斑点のようなものが浮かんでいる。それは浮かんでいるようにも見えるけれど、点滅しているようにも見える。空はまるで朝まで酒を飲み続けた日の晴天の太陽みたいに、壊滅的な居心地の悪さを更に強調しているような青色をしていた。その青色は僕の目に容赦なく突き刺さってきた。気違いじみた青空を多少なりともなだめすかすようにして、白い斑点は無数に浮かんでいる。僕は目を閉じて10秒数えて、再び目を開いた。斑点は点滅しながらまだそこに浮かんでいる。「あれ、何かな。」隣に寝転んでいる友人に声をかける。友人は川の土手の芝生に俯せになったまま眠っている。小さな寝息の音が彼の鼻の二つの穴から聞こえてくる。唇は薄く開かれたままで、その割れ目からは涎が垂れ下がって芝生にまで届いていた。僕はもう一度青い空の白い斑点を眺めてから、右手の親指と人差し指とで両目の瞼を軽く押さえた。その時何かが僕の頭の中に浮かんだ。僕は右手の指を瞼から離して、目を開く。まだ、そこに斑点は浮かんでいる。僕は白い斑点をぼんやりと眺めながら。自分の頭の中に浮かんだものについて考えてみる。それは浮かんできたというよりもむしろ僕の頭めがけて何処かから落っこちて来たという感じだった。例えば深い井戸の底みたいな僕の頭に、遥か上空の小さな丸い光から小石が一つ落っこちて来たような、そんな感じだ。落ちて来た小石が僕の頭の中に波紋を作り出す。すると僕の脳みその中で、どこかの記憶の断片と、またどこか別の記憶の断片とが共鳴して、うまくするとそれは全く別の事柄へと変化して僕の脳みそに新たな記憶として保存される。白い斑点は点滅しているように見えるが、本当は点滅などはしていないのかも知れない。広大な空の青さに対して、その白はあまりに小さくそして曖昧だった。その小ささと曖昧さが、僕の目には点滅という動きを伴って映っているだけなのかも知れない。同時に自分の頭に浮かんだものも空に浮かんだ白い斑点同様、小さく、曖昧だった。僕は意識を集中する。僕は何かを思い出そうとしている。記憶の断片をジグソーパズルのピースのように頭の中ではめ合わせる。一つの形が見えてくる。その形はやがて一つのビジュアルを映し出す。カレンダーだ。「カレンダー?」僕は無意識に声に出して言う。隣で寝ていた友人が「う〜。」と言いながら寝返りを打った。左手の甲で垂れた涎を拭った。仰向けになった友人は眩しそうに瞼に力を入れる。空が青過ぎるのだろう。眉間に深い皺が刻まれる。その表情はひどく何かに怯えている子供みたいに見えた。川岸のサイクリングロードを三人の女子校生が自転車で走って行くのが見える。一人の子が「今日、誕生日だよね〜。」と言ったのが聞こえた。しばらくして三人は大きな声で笑い出し、けたけたと笑いながら何処かへと走り去って消えてしまった。僕はふと思い出す。今日が「何かの日」だったのだという事を。誰かの誕生日だっただろうか。違う。カレンダーだ。デスクに置いてある卓上カレンダーの今日の日付に何かが書いてあった筈だ。でも、今日は一体何の日だっただろう。空に浮かぶ白い斑点は止まったままずっとそこにある。あれは何だろう。人工衛星みたいに見えるけど、そうじゃない。人工衛星にしては、しっかり見えすぎている。僕は斑点の数を数えてみる。1、2、3、4、5、…18、19。19個の白い斑点、それ以上でもなくそれ以下でもない。増える事もなく、減る事もない。その「19」という斑点の数は何かしら完全性と確実性のようなもの象徴しているような気がした。おそらく僕たちの住んでいる世界には完全に確実なものなど存在しない。なぜなら僕たちは完全なる不確実性の上にしか存在していないのだから。宇宙が確実のものと捉えられない以上、そこに存在する僕たちは完全に不確実なのだ。しかし、そんな完全なる不確実性の世界において、何故かその斑点の数だけは完全に確実であるように僕には思えた。それはただ単に「そう思った」というだけの事なのかも知れないけれど、世界に完全な確実というものがもし存在するのだとしたら、それは今僕が見ている19個の白い斑点だけなのだ。すぐ近くで犬の鳴き声が聞こえる。見ると土手の上を散歩する2匹の犬がお互いに向かって吠え合っている。まるで何かの挨拶を交わすみたいに、楽しそうにじゃれ合いながら2匹の犬は吠えている。友人が「うるさいあ。」と言って目を覚ました。「せっかく気持ちよく寝てたのに。」友人は土手の芝生から身体を起こして膝を抱えた。そして一回あくびをした。その後友人は意味もなく右手で芝生をむしって放り投げた。投げられた芝生は僕のバスケットシューズの上に頼りなく落ちた。僕は蹴飛ばすようにしてシューズに乗った芝生を落とした。そして青い空を指差して友人に言った。「ねえ、あれ何だと思う?」「ん?」と言って友人は空を見上げた。その途端に19個の白い斑点はものすごいスピードで二、三度上下したかと思うと、鋭いカーブを描きながら急激に上昇していった。そして次の瞬間には全ての斑点が消えてしまっていた。「今の見えた?」僕が友人に聞くと「見た。UFOだ。俺、初めて見た。」と言った。僕はそれがUFOだとは俄には信じられなかったが、友人がそう言うとなんとなくそんな感じがした。「さっきからずっとあそこの空に止まってたんだ。19個。」友人は空を見上げたまま、また土手の芝生にごろんと寝転がると、頭の後ろで両腕を組んだ。そして言った。「おおかた宇宙旅行でもしてるんだろうよ。」土手上の2匹の犬は吠える事に飽きてしまったらしく、各々散歩の続きに戻っていた。どちらの犬も興味は既に別のものへ移っているみたいだった。僕も友人と同じように土手に仰向けになる。川下の方から風が吹いてきて、土手の芝生にさざ波を立てた。今日は(19個のUFOの襲来を除けば)のどかで当たり前で、そして暇な一日だ。特にやるべき事も見つかりそうにないので、僕は空を見上げながら宇宙について考えを巡らせてみる。例えば宇宙旅行について。暇つぶしにはもってこいのアイデアだ。今日が何の日であるのかは、家に帰ってデスクの卓上カレンダーを見ればいい。空の青さは相変わらず壊滅的な居心地の悪さだけれど、こうしているとなんとなくそんな事にも慣れてしまうものだ。

溶解してゆく間

hiroyukimiura2012-04-07

 彼女は左手で頬杖をついたまま、ずっと窓の外を眺めている。右手で軽くストローをつまんで、時折グラスの中のコーヒーをくるくるとかき混ぜる。その度に氷がカラカラと音を立ててグラスに当たる。グラスの中の氷はさっきより幾分溶けて小さくなったように見える。僕たちが喫茶店に入ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。次第に小さくなってゆくアイスコーヒーの氷が、その時間経過を僕に教えてくれているみたいだ。グラスの表面で模様を作っている水滴が一つ、音も立てずにコースターに落ちた。コースターの横にはカフカの「城」の文庫本が開かれたまま伏せて置いてある。
 彼女はここ数ヶ月その本を肌身離さず持ち歩いている。眠る前に彼女はそれを必ず読んだ。僕はいつも彼女より先に眠ってしまっていたので、彼女がいつ本を置いて明かりを消し、目を閉じたのかは分からない。朝起きるといつも彼女は既にキッチンの椅子に座って、それを読んでいた。仕事に出かける時には鞄の中に本を入れて行ったし、仕事から戻るとすぐ本を鞄から出してリビングのテーブルに静かに置いた。とにかく、彼女は何かのお守りのように、いつもその本を持ち歩いて、折を見て頁を繰っていた。僕は一度その事について彼女に質問したことがある。何故いつもその本を持っているのかと。すると彼女は手に取った文庫本の表紙を眺めながらしばらく黙った。その後、視線を僕に移して言った。「なんか、文章が肌に刺さってくるような感じがするの。」僕は何も答えずに彼女の次の言葉を待ったが、それ以上の言葉は彼女は持ち合わせていないようだった。しばらくの沈黙の後、僕はもう一つ質問を付け加えた。その本は何回読んだのかと。今度は彼女は即座に答えた。「今13回目。」それを聞いて僕は無意識に自分の耳を疑った。その言葉の意味するところが僕には全く理解出来なかったからだ。その言葉はとても不思議なイントネーションを帯びていて、「今」という意味を為す言葉と、「13」という数値と、回数を現す「回目」という言葉の内容が完全に平板に聞こえて、言語から意味が全て抜かれてしまったような話し方だった。それは「今13回目。」ではなく「イマジュウ、サンカ、イメ」と聞こえた。僕は「ふうん。」とだけ答えた。だって、それ以上僕に何が言えるというのだ。
 彼女はまだ窓の外の通りを眺めている。時折ストローが回り、溶けかけの氷が音を立てると、店に流れているBGMまでもが一瞬溶けてしまったかのように霧散する。ストローが止まって氷の音が消えると、BGMはまたゆっくりともとの形を取り戻して、当たり前の音楽になって流れ始める。僕は彼女の顔を眺める。唇が小さく動いている。ぼんやり眺めていたら見落としてしまいそうな程、その動きは小さく、そして心もとない。唇は小声で何かを話す時のように、ある一定の法則を持って動いている。多分、彼女は何かを喋ろうとしているのだ。僕は彼女の小さな唇の動きに意識を集中して、そこから漏れる息に耳を澄ました。「キ、キ、アオ、チャ、シロシロ、キ」彼女は確かに何かを喋っている。「シロシロ、シロ、ギン、クロ、クロ、ギン、キ、ネズミ、ミドリ」彼女は通りをぼんやり眺めながらポツリ、ポツリとつぶやくようにして何らかの言葉を発している。そんな彼女を見ていると、何故か僕は不安にも似た奇妙な感覚に落ち入った。その奇妙な感覚は僕の身体の中で少しずつ拡大されて行き、やがて拡大された不安は僕を焦らせ始めた。その感覚を身体から一掃するために僕は彼女に話しかけた。「ねえ、サユミ。」と。声に出した瞬間に拡大された不安は一掃されたが、僕は同時にある事を確信していた。おそらく僕は、本当は今ここで話しかけるべきではなかったのだ。僕の問いかけに、彼女は長い間眺めていた窓の外からこちらに向き直った。そして首を傾げるように僕に視線を移すと「ん?」と声にならないような声を出して、さらに少し間を置いてから「何?」と言った。「さっきから、何か喋ってなかった?」と僕が聞くと、彼女は窓の外を指差してこう言った。「え、車の色よ。ほら。」通りでは、右から左に、左から右に車が忙しそうに行き来している。「アカ、シロ、シロ、ギン、チャ、キ、シロ。」彼女は今度は行き交う車の色を、しっかりと声に出して言う。「シロ、シロ、アオ、キ、ミドリ、シロシロ、あ、またシロだ。」そこまで喋ると、彼女はコーヒーのグラスを手にとってストローをくわえた。氷はもう半ば溶けてしまって、グラスに当たっても殆ど音を立てなくなっている。一口コーヒーを飲むと、彼女は僕の顔を見て言った。「これ、ケンイチの真似よ。」彼女が何について話しているのか分からなかったので、僕は黙っていた。すると彼女は続けた。「車の運転してる時によくやるじゃない。ケンイチ。」「何をさ?」訳が分からず僕は彼女に聞いた。「え?よくすれ違う車の色を、ぼそぼそ話してるじゃない。」「僕が?」僕には自分がそんな事をしている記憶は全くなかった。「そうよ。」と彼女は言った。「その真似をしてみたの。」僕はしばらく黙ってから「ふうん。」とだけ答えた。だって、それ以上僕に何が言えるというのだ。彼女はしばらく僕の顔を見ていたが、僕の気の利かない返答に、それまでの話の興味を失ったらしく、テーブルの上の文庫本の視線を落とした。試しに僕は窓の外を行き交う車の色を小さく声に出して喋ってみた。あわよくば、彼女が一緒に真似してやってくれたらという淡い期待を持って。「キ、アカ、シロ、シロ、ミドリ、ギン…」。既に僕の視界の端っこに映っていた彼女は、文庫本を手に取って読み始めていた。
 仕方がない。グラスの中の氷が溶けきってしまうまで、僕は車の色を喋り続けよう。

11歳の完全な孤独

hiroyukimiura2012-04-03

 11歳よりももっと幼かった頃の僕の身体はまだ不完全であって、まだ充分に他者と異化されていなかったように思う。自分の身体の定義するところの個、もしくは自分の身体の境界線みたいなものが、曖昧であったと言える。その頃の僕は簡単に自分意外の存在と同化する事が出来た。僕は母の身体や、幼なじみの友達の身体や、飼っていた犬や、近くの沼から拾って来たカエルや、他の多くの物ともしばしば同化していた。同化するという事はイマジネーションの問題でもあるのだけれど「想像する」などという面倒な方法を通らなくとも、ごく当たり前のように行われていたように思う。例えば友達が転んで血を流せば自分の痛みのように泣きわめいたし(そう、当時は本当に自分の膝からも血が流れているのだった)、母に寄り添って眠れば、母の胎内に戻る事も簡単な事だった。おそらく未だ<身体が不完全>であることから<身体の孤独>を獲得していなかったのだろうと思う。小学校の教室でクラスメイトの女の子に耳を見せられる、その時までは。


 それは11歳の時だった。


 ホリコシさんはおとなしくてとても小さな女の子だった。もちろんクラスで整列する時には決まって一番前に彼女は立った。ホリコシさんは勉強は出来たけれど運動は少し苦手なようだった。僕はホリコシさんの隣の席だったから、そんな彼女に色々と勉強を教えてもらっていた。5年生になっても掛け算が出来なかった僕に、彼女はりんごやみかんを例に挙げながら丁寧に掛け算を教えてくれた。そんな時僕は幼心に「ホリコシさんはこんなに小さいのに、九九が出来て凄いんだなあ。」と自分の不甲斐なさを棚に上げて感心したものだった。そしてホリコシさんは本を読むのが好きな子だった。休み時間にはたいていの子供達が校庭に飛び出して遊ぶのに、ホリコシさんは教室に一人残って本を読んでいた。僕はチャイムが鳴ると急いで廊下に飛び出すタイプの子供だったけど、時々廊下に出る前に教室の扉から振り返って本を開くホリコシさんを観察する事があった。机に向かって姿勢正しく座って、彼女は本を開く。黒くて長い髪の毛で彼女の表情はよく見えないけれど、大きな目で静かに活字に意識を集中しているようだった。僕は<本を読む>という事も彼女から教わった。僕は時々、休み時間にホリコシさんの真似をして机で本を読むようになった。もちろん彼女が読んでいる本が灰谷健次郎だったのに対して、僕が読むのは歴史マンガの類だったけれど。でもそんな風にホリコシさんの隣に座って、読み慣れない本を開いて、静かに読むという行為が僕は好きなっていった。そのようにして小学生の僕は小さなホリコシさんに少しずつ惹かれていったのだ。
 そんなある日、ホリコシさんが授業中に突然「わたしの耳見る?」と僕に言って来た。授業中だったから、彼女は内緒話をするように、僕の耳に口を近づけて囁くように言った。僕は何故かとてもドキドキしてしまい、彼女の言っている事の意味するところが全く掴めなかった。秘密めいた彼女の申し出に不意打ちを食らって、僕が何も答えられずにいると、ホリコシさんは「誰にも言わないでね」と言って、いつも耳を隠すように垂らされていた黒くて長い髪を、左手で(他の人には見えないようにして)かき上げた。
 

 そこにあったのは<閉じられた耳>だった。


 耳らしきものはある。しかし普通の耳は花が開いたような格好をしているのだけど、彼女のそこに付着している未発達の器官のような耳は、花のつぼみのような格好をして閉じられていた。僕はその小さなつぼみを見せられて、何も言葉にする事は出来なかった。そして彼女が何故、僕にその<閉じられた耳>を見せたのかをも理解する事は出来なかった。それほどまでに僕は不完全だったし、自分や他人の身体をとても曖昧に捉えていたのだ。要するに僕は子供過ぎたのだ。ホリコシさんは髪の毛を元に戻すと「左の耳だけなの。右はちゃんと皆と同じ形なんだ。」と言った。(しかし右の耳は見せてくれなかった)彼女はそこまで言うと寂しそうに笑った。そして、僕もどうしていいか分からず、なんとなく笑った。それももしかしたら寂しそうな笑い方だったのかも知れない。
 ホリコシさんが左耳を見せてくれた事でそれからの僕と彼女の心の距離は(ある意味において)とても縮まったように僕には思えたし、多分彼女もそう思っていただろう。と同時に僕は彼女の身体に孤独を感じざるを得なかった。それは僕にとって(ある意味においては)彼女との距離を幾分遠ざけるものであった。「彼女と僕の身体は完全に異なる部分があるんだ」と言う思いは、やがて僕の中で全ての人に共通して感じるものになっていった。そしてその思いは僕自身をも孤独にさせる事となった。やがて僕は、他者と異化し、身体を同化させる感覚を失っていった。
 
 僕は11歳の時に孤独な肉体を知り、同時に完全な肉体を獲得したのだ。

空が青い

hiroyukimiura2012-03-20

 雲一つない青空というのはどうも好きになれない。私は青い空と、曲がったキュウリと、長い財布と、ひび割れたかかとが大嫌いなのだ。その四つに何かしらの関係性があるのかどうかは私には分からないけれど、とにかく生理的に受け付けない。それなのに何故か私は公園のベンチに座って、青い空をぼんやりと眺めている。遣る瀬無いったらない。よりによってなんでこんな所に座ってしまったのだろう。
 休日という事もあって公園では、沢山の親達が子供とボールを蹴り合ったり、キャッチボールをしたり、子供を遊具に乗せてぐるぐる回したりして遊んでいる。休日に自分の子供と公園で遊ぶ父親は、なんだか滑稽な存在に見える。多くの母親達は遊ぶ子供を遠巻きから眺めつつ、友達のお母さん達と立ち話をしているのだが、ほとんどの父親達は子供と一緒になって、自分も子供のようになって馬鹿みたいにはしゃいで遊んでいる。男はいつまでたっても子供だというのはよく言われる事だけど、いつまでたっても子供みたいな男はなんかみっともない。
 私も結婚をして子供が生まれたら家族で公園に遊びに来るのだろうか。そしてこうしてベンチに座って、子供と一緒になってはしゃぐ自分の旦那を眺める事になるのだろうか。なんかリアルに想像出来ない。でも、近所のお母さん友達との立ち話くらいならなんとなく出来そうな気がする。それと似たような事は、今だって毎日会社でやっているのかも知れないし。
 私の目の前で、若い父親と小さな男の子がボールを蹴り合っている。それは蹴り合っているというよりもむしろ、玉転がしと言った方がいいのかも知れない。父親は足でボールに触れる程度のキックをして息子にボールを渡す。息子はよたこよたことボールを追いかけて、追いつくと両手でボールを止める。しばらく手を使ってボールを転がして、最後に父親に向かって蹴る真似ごとのような動作を見せる。ボールは蹴られたのではなく、ただ両の手で転がされただけだ。まだ息子はボールを蹴るという事が何なのかも分かっていないのではないだろうか。それでも若い父親は自分の息子に向かって「よ〜し。うまいうまい。ナイスキックだ。」とか言う。
 こういう親を傍から見てると下手な学生演劇を見ているようで、なんだかこっちが恥ずかしくなってしまって、どうにも居心地が悪くなる。
 父親が蹴ったボールが勢い余って私の座っているベンチに向けてコロコロと転がって来る。その後をよたこよたこと息子が追いかけて来る。息子はボールだけを見ていて、ベンチも見えていなければベンチに座っている私の事も見えてはいない。私は「はあ」と溜息をついて、青い絵の具を刷毛で薄く塗り込んだみたいな空を見上げる。こんなに澄み切った空の色もなんだか作り物みたいで、あの父親のように恥ずかしい。居心地悪い空。ボールは私の足下まで転がって来てゆっくり止った。よたこよたこと私の足下に向かって来る子供。
 私はベンチから立ち上がって、足もとのボールを父親に向けて思いっきり蹴飛ばした。
 「ないすきっく。」
 私が独り言のようにそうつぶやくと、初めてよたこの子供が私の顔を見た。よたこの子供は、何が起こったのか分からないといったような顔をして、私の顔の方に視線を向けて固まっている。私は子供の表情に何かを読み取ろうと試みたが、子供の顔には表情というものがまるでなかった。ただ視線の先で焦点を合わせる為の対象として、私の顔を選んだだけだなのだろう。
 遠くで父親が言う。
 「どうもすいませ〜ん!ありがとうございます。」
 私はその言葉を無視して、子供に向かって小さな声で言った。
 「ボールはこうやって蹴るものよ。お父さんの所へ行きなさい。」
子供は驚いた子猫のように一瞬身体を硬直させると、すぐに踵を返してよたこよたこと父親のもとへと向けて歩き始めた。
 私は公園を後にして、スーパーでじゃがりこを3つ買って自宅に戻った。本当はジャガビーが良かったのだけど、そのスーパーにはジャガビーは置いていなかった。全ては青い空のせいだ。こんな青空の日は、やっぱり部屋の中にいるのが一番いい。

闇にある音

hiroyukimiura2012-03-16

 夜中に目を覚ました。枕元の時計を見ると2時28分だった。特に寝苦しかったとか、悪夢にうなされたとかいう訳でもなく、寝返りを打った拍子にぼんやり目を覚ましたというのでもなかった。私はただ突然に、目を覚ましたのだ。それはまるで風に吹かれて枯葉が枝から離れるみたいに、とても自然で、それが至極当然の事であるかのような覚醒だった。私は時計から天井へと視線を移した。薄暗い部屋の中で見る深夜の天井は壁との境が曖昧で、高さや奥行きの感覚がぼやけて見える。その闇とも言えないような闇が、そこに理不尽に放たれた私を酷く困惑させた。その困惑は私の血流を早め、どくどくと脈打つ血の流れがさらなる覚醒を呼び、私は深夜の寝室でひとり孤独な漂流を始めた。


 私の耳に入ってくるのは、タクタクと規則正しく時を刻む秒針の音だけだ。窓外に耳を澄ましてみたけれどそこには音とよべるような気配は全く感じられなかった。深夜の幹線道路を走る車の音もなければ、風の音も聞こえない。深夜の音はその闇の色が深ければ深いほど、気配を消してしまうものなのだ。外は完全なる無音の世界を維持し続けて、あるいはさらに無音の壁を厚く塗り重ねるようにして、私が一人漂流するこの部屋をすっぽりと包み込んだ。タクタクタク。秒針は一秒一秒をきっかり正確に、まるで小さな四角い闇の空間にひとつづつ時の烙印を残してゆくかのように音を刻む。タクタクタク。その音以外、私には何も聞こえて来ない。タクタクタク。この世界に存在しているのはその音だけだ。私は曖昧な闇に包まれた空間にいて、高さも奥行きもない天井を眺めながら、じっとその音を聞いていた。長い間ずっとそうしていて、やがて私はある事に気がついた。タクタクタク。その音は私の心臓が全身に血液を送る為に働いている音だったのだ。




 タクタクタク。
 
 タクタクタク。



 枕元の時計は3時46分を指している。私は再び天井に視線を移す。私はまだ、自分の心音に耳を傾けている。

停留所

hiroyukimiura2012-03-10

 バスは海岸沿いを走っている。乗客は私を含めて四人しか乗っていない。正確には四人と一匹。私はバスの最後部座席の左端に座って、車窓から広がる静かな海を眺めている。前の方にランドセル背負った小学生の女の子が一人。二人がけの席に50代前後のおばさんが二人並んで座っている。一匹は私の横に置かれたかごの中に行儀良く収まって、おそらくは睡眠を貪っているのかも知れない。夏のじりじりとした太陽が、海面に反射して無数の有機的な模様を作り出している。何万年も昔から、ずっと同じようにそうして来たと言わんばかりに、太陽は粛々とその仕事をこなしているようだ。バスは海岸線に沿って左右になだらかなカーブを描きながらゆっくりと走っている。
 私は大学時代から10年近く暮らしていた東京を離れて、実家に戻る決心をした。特に東京での暮らしに行き詰まった訳でもないし、卒業後に始めた出版社での仕事も順調だった。仕事場での人間関係に問題があった訳でもない。10年の間に二度失恋を経験して、三度目の恋をしていた。ただ、私はその人との結婚を考えていた訳ではなく、彼が「結婚」という言葉を口にしても私にはそれが一体何を意味するのか、仮にそういった状況になったとしても何が変わるのかが理解出来なかった。それはなんだか、さして親しくもない友人の話のように私には思えた。そんな時に、実家で暮らしていた妹が結婚して家を出る事になり、私は実家に戻る事にしたのだ。父と母があの家で二人だけで暮らして行くという事が、何故だか私にはイメージ出来なかった。他に特に理由は見当たらないけれど、東京を離れるきっかけが何だったかと言えば、そういう事になるのかも知れない。
 私が会社に辞表を出した時、それを受理した上司は私を引き止めるような言葉もなく、私の「一身上の都合」というありきたりな文句に対しても、理由を質すような事もなかった。ただ、職場でよく話したりご飯を食べに行ったりしていた同僚の数人が、小さな送別会を開いてくれただけだった。送別会は一次会の2時間だけで終わった。最後に皆、口を合わせたように「明日朝早いからさ。」と言い、その後で「ごめんね。」とか「メールするね。」とか「東京に来る事があったら、絶対連絡してね。」とか言っていた。もし私が逆の立場だったら、同じような事を言ってそそくさと帰っていただろうと思う。仕方ない。だって、小さな出版社だけど、それはそれなりに忙しいのだから。
 T港前のバス停で、バスが停車した。さっきまでずっとこそこそ喋り続けていたおばさん二人が下車する。降りがけにおばさんの一人が運転手さんに「今日も暑いですねぇ。」と声をかけた。運転手さんはその問いかけを無視して「ありがとうございました。」とだけ応えた。小学生の女の子はそのやりとりとも言えないようなやりとりを不思議そうに眺めていたが、すぐに興味を失ったようで、窓の外に視線を移した。赤いランドセルに付けられた小さな鈴が「ちりん」と鳴った。その音を合図にしたかのようにバスが発車した。バスは港を過ぎて、また海岸線に沿った道へと進んで行く。港が近いからか、海側には白い鳥が沢山飛んでいる。カモメだか、海猫だか。鳥達は器用に海風を捉えて、羽ばたきせずに、宙に浮かんでいるように見える。時折、風を失って数メートル程その身体を落下させるが、数回羽をばたつかせると、またうまく風を捉えて、そこに身体を固定させるようにすっと静止する。うまいものだな。と私は感心する。前に座っている女の子も、あの鳥を眺めているのだろうか。窓ガラスに顔を近づけてジッと外を見つめている。赤いランドセルに黄色い通学帽。帽子の下から三つ編みに結われた髪の毛が二本垂れ下がっている。20年前の私もあんなだった。そう言えば、私も妹もこのバスに乗って学校に通っていたんだ。私があの女の子の歳の頃には妹はまだ保育だったから、一人の時には、ああやって外を眺めながら学校から帰ったものだ。そう思うと、私は女の子に奇妙な親近感を覚えた。
 かごの中の1匹が「にゃー」と鳴いた。長い時間貪り続けた眠りから目覚めたようだ。バスに乗る前にネコ缶を一つ丸ごと食べたネコは、バスに乗るとその振動の心地よさに身を委ねるようにして、すぐに静かになった。彼女は往々にして、良く食べて、良く眠るネコなのだ。食べる時も眠る時も、その量がいつも私を驚かせた。この子は実家での暮らしでうまくやっていけるだろうか。と、私は思う。実家では昔、私と妹がまだ幼かった頃に一度だけネコを飼った事があったから、父も母も多分すぐに慣れて、この子を可愛がってくれるだろう。でも、ネコの方が実家の環境にうまく適応出来るかが、私は心配だった。東京での私はマンション暮らしだったので、生後半年でペットショップから買って来たこのネコは、一度もマンションから外に出た事がなかったのだ。ネコはその環境の大きな変化について行けるのだろうか。私の心配をよそに、ネコがまた「にゃー」と鳴いた。その鳴き声に気づいたのか、前に座っている女の子がこちらに振り返った。女の子と目が合ったので私は彼女に向かって軽く微笑んだ。女の子はまん丸な目をして不思議そうにこちらを見ていたが、しばらくするとぷいっと前に向き直った。ランドセルの鈴が、また「ちりん」と鳴った。
 バスは海岸沿いの道から離れて、町の方へと入って行く。懐かしい景色。私が上京した頃から、この辺りは全然変わっていないように思える。多少くたびれて、古くなってしまったように私の目には映るけれど、それはただ単に私が歳をとったとうだけの事なのかも知れない。おそらく、あの女の子の目にはそうは映っていない筈だ。バス内の放送が、私の降りるべき停留所の名前を告げた。私は財布から小銭を取り出して用意する。ネコがもう一度「にゃー」と鳴いた。その声を聞いて、女の子がまたこちらに振り返った。同じようにまん丸な目で私を(いや、私の隣に置いてあるかごを)見ている。バスは次第に速度を落とし、やがて静かに停車した。私は停車したのを確認して、ゆっくり座席から立ち上がり、かごを右手に提げる。女の子はその視線を私のかごにぴったりと貼付けてしまったみたいに、それがバスの後方から前方に移動して行くのを見ている。女の子の首が右から左に大きく回る。視線はかごに貼付いたままだ。丁度女の子の前で立ち止まる形になって、私は料金箱に運賃を入れた。その時、ネコがまた「にゃー」と鳴いた。そして私は、内緒話をする時みたいに小さく抑えた声で、その女の子が微かに「ねこだ!」と言ったのを聞いた。
 私はバスを降りた。すごく暑い。太陽は相変わらず、粛々とその仕事をこなしているようだ。私は私が子供の頃に暮らしていた町に戻って来た。背後でバスが走り去って行く。バスのエンジン音が遠ざかって行くと同時に、沢山の蝉の声が私を包んで行く。私は何かに包み込まれる感覚を抱きながら、同時に何かから解放されたような感覚になる。私は帰って来たのだなと思う。そこがどこであるにせよ、私には帰る場所があって、そして私はそこに戻ったのだ。そう思うと私の中で小さな鈴が「ちりん」と鳴ったような気がした。ふと気がつくと、小学生の女の子が私の横にいる。そうか、私はこの女の子と同じ町で暮らす事になったんだ。私がじっと女の子を眺めていると、かごに貼付いていた視線を無理矢理はがすようにして、女の子が私の顔を見た。そして女の子は「ねえ、これ、ねこ?」とかごを指差して私に言った。「そうだよ。見たい?」と私が聞くと、女の子は無言のままで大きく頷いた。その目は今にも飛び出してしまうのではないかと思う程大きく、ビー玉のように丸かった。私はかごを地面に置いて、その蓋をゆっくりと開いた。ネコが突然飛び出してしまわぬように、そっと、ゆっくりと。
 ネコは開けられた蓋から真上を見上げるようにして外を見ている。女の子と目があったのかも知れない。ネコはひげをピンと立てて「にゃー」ともうひと鳴きした。女の子が恐る恐る手を伸ばして、ネコの頭をやさしく撫でた。その腕は真っ黒に日焼けしていて、肌には汗が玉になって浮かんでいた。私は鞄からハンカチを取り出して、女の子の汗をそっと拭ってあげた。女の子は(私にではなく)ネコに向かって「ねえ、名前は何?」とか話しかけている。私は停留所の前にしゃがんで、しばらくの間、女の子とネコの新しい出会いに立ち会う事にした。いつの間にか、私のいらぬ心配は何処かへ消えていた。